與止日女神社
【神社】
與止日女神社(よどひめじんじゃ)は佐賀県佐賀市大和町の川上川(嘉瀬川)傍にあります。別名は「河上(かわかみ)神社」で肥前国一宮(いちのみや)です。
神社御由緒では祭神について「與止日女命(神功皇后の御妹)、また豊玉姫命(竜宮城の乙姫様)とも伝えられている。」と記されていますが、大正15年出版『佐賀県神社誌要』「河上神社」では、祭神は「與止日女命神」と「大明神」だと記されています。創建は『肥前国風土記』逸文の記述より欽明天皇25年(564年)で、2014年には創建1450年祭が行なわれていました。
與止日女神社は肥前国一宮ですが、肥前国には一宮神社がもう一社あります。佐賀県三養基郡みやき町にある「千栗八幡宮(ちりくはちまんぐう)」です。
與止日女神社には古代からの格式があり、また千栗八幡宮は宇佐八幡宮の五所別当という権威があり、しかもそれぞれに後陽成天皇が「ここは一宮だよ」という勅額を下賜したために、どちらが本当の肥前国一宮なのか争いが起こりました。(後陽成天皇は慶長7年(1602年)に「大日本国鎮西肥前州第一之鎮守 宗廟河上山正一位淀姫大明神一宮」と書いた勅額を與止日女神社に下し、慶長14年(1609年)には「肥前国総廟一宮鎮守千栗八幡大菩薩」の勅額を千栗八幡宮に下しています。)
60年ぐらいもめていたようですが、結局江戸幕府が喧嘩両成敗の形で「以後はどちらも一宮の呼称を許さない」と決着させたようです。でも今現在はどちらも一宮を称していますね。なんじゃこりゃw
さて、このページでは與止日女神社の境内写真を掲載しますが、なんと3枚しか手元にありません!
しかも全て元旦仕様となっていますので、掲載した写真では普段の神社の様子がさっぱりわかりません。
なぜ3枚しか境内写真がないのにこうやって独立したページを作成したのかというと、與止日女神社の祭神について調べたからです。
祭神の「與止日女命」については諸説あり、非常に謎が多い神様です。神社の紹介文章を書くために色々と調べてみた結果、数行では収まらず長文となってしまいましたので独立したページを作成しました。この文章は長々と自説を紹介しているだけですので興味がない方はすっ飛ばしていただいてけっこうです。管理人的にもこの長文は説明としてはアウトなのですが、せっかく書いたので掲載します。
以下、境内と狛犬の写真の後に、與止日女神社の祭神について書いた文章を掲載しています。
史料の画像も含めて計8枚掲載。

所在地:佐賀県佐賀市大和町大字川上1-1
撮影日:2009年01月01日、2015年01月01日
掲載写真:8枚
祭神:與止日女命・大明神
◆與止日女神社拝殿・境内

2009年01月01日撮影

2015年01月01日撮影

2015年01月01日撮影
◆與止 日女神社狛犬


與止日女神社拝殿前の狛犬です。画像は1枚目が吽形、2枚目が阿形です。
吽形は足元に玉を置いていますので「玉取りの狛犬」です。阿形はもしかしたら口の中に玉があるのかもしれませんが、画像で確認できませんでした。管理人の記憶にもありません。今度参拝した時に確認したいと思います。
與止日女神社にはこの狛犬を含めて3対の狛犬がいましたが、管理人は拝殿前のこの狛犬しか撮影していません。
◆與止日女神社祭神について
與止日女神社(河上神社)の祭神「與止日女命」と「大明神」について管理人が調べたことを書いてみたいと思います。
もちろん與止日女命に関しては色んな説があって、多くの方が実直に調べておられます。以下の文章はあくまでも管理人の妄想文章です。管理人は趣味でこの文章を書いていますので、詳細な証拠や史料などは求めないでください。よろしくお願いします。
一応、章立てしていますので目次的なものを紹介しておきます。
最後に注釈というか説明という意味で『肥前国風土記』の写本についての文章を掲載していますが、この文章は管理人の説を補強するために色々と捻じ曲げて書いた文章ですので素直に信じないでください。(←ヒドイw)
文章内で掲載している画像はすべて国立国会図書館デジタルコレクションより引用しており、クリックすると拡大します。
<目次>
・與止日女神社の祭神
・世田姫(肥前国風土記)
・與止姫(肥前国風土記逸文)
・世田姫と與止姫の関係
・世田姫はなぜ豊玉姫と言われるのか
・荒ぶる神とは何か
・まとめ
・(注)肥前国風土記写本について
與止日女神社の祭神
與止日女神社(河上神社)の祭神は、與止日女神社御由緒(ホームページ、境内の立札など)では「與止日女命(神功皇后の御妹)、また豊玉姫命(竜宮城の乙姫様)とも伝えられている。」と記されています。御神徳は「海の神、川の神、水の神として信仰され、農業をはじめ諸産業、厄除開運、交通安全の守護神」です。川上川の傍に社殿があることからも祭神がいわゆる水の神であることは容易に納得できます。
神社名からも祭神が「與止日女命」であることがわかりますが、大正15年(1926年)に出版された『佐賀県神社誌要』によると、祭神は「與止日女命」と「大明神」です。当時は「與止日女神社」ではなく「河上神社」と称されています。現在、国立国会図書館デジタルコレクションにて該当ページを閲覧できますので管理人も確認してみました。間違いなく「與止日女命」と「大明神」が併記されています。

祭神の「與止日女命」と「大明神」はどういう神様なのか、実はよくわかっていません。
「與止日女命」は記紀神話には登場しないようで、Wikipediaの記述も「神功皇后の妹という。また一説に、豊玉姫であるとも伝える」だそうで実に曖昧です。
與止日女命が神功皇后の妹であり、同時に豊玉姫だということはあり得ません。時代が違いすぎるからです。豊玉姫は初代天皇である神武天皇の祖母ですし、神功皇后は第15代応神天皇の母親ですからね。これっていったいどういうことなのでしょうか?
ということで非常に気になりましたので、ネットで調べてみました。
世田姫(肥前国風土記)
與止日女神社がある川上の地には昔、「世田姫(よたひめ)」伝説がありました。
この伝説は740年頃に成立したといわれる『肥前国風土記』(和銅6年の詔(713年)により編纂開始)に記載されています。
<書き下し文>
引用:『風土記』武田祐吉 編/岩波書店 昭和12年(1937)
『此の川上(かはかみ)に石神あり。名を世田姫といふ。海の神[鰐魚を謂ふ。]年常(としごと)に、逆(さか)ふ流(ながれ)を潜(くぐ)り上りてこの神の所に到るに、海の底の小魚多(さは)に相従へり。或るは人その魚を畏(かしこ)めば殃(まが)なく、或は人捕り食へば死ぬることあり。凡そこの魚等、二三日(ふつかみか)住(とどま)りて、還りて海に入る。』
------筆者注------
●細注、久老本、年常の下にあり。
(※管理人注:「細注」とは「謂鰐魚」部分のことです)
●川上の石神に通ふ海の神
●魚等 - 等字、猪熊本により補ふ。下の住字、久老本経、又猪熊本による。
-------------------
※管理人注:肥前国風土記写本名や「謂鰐魚」については後記「(注)肥前国風土記写本について」で説明しています。
<原文>
『此川上有石神。名曰世田姫。海神年常逆流潜上到此神所。海底小魚多相従之。或人畏其魚者無殃。或人捕食者有死。凡此魚経二三日還而入海』
※管理人注:この漢文の読み方についても「(注)肥前国風土記写本について」で触れています。ちなみにこの原文は久老本です。

『肥前国風土記』に記されている世田姫伝説の内容は、「この川上に石神がいる。名は世田姫という。海神(鰐魚のこと)が魚を引き連れて毎年この石神のところに川を遡ってやってくる。人々がこの魚を丁重にもてなせば災いは無いが、人々がこの魚を食べてしまえば死ぬこともある。この魚たちは2~3日留まって、やがて海へ還っていく。」というものです。
與止日女神社御由緒(ホームページ)によると、このお話に出てくる魚は鯰(ナマズ)だと考えられているそうです。神社の傍を流れる流域は聖地であり殺生禁断で、特にナマズは祭神の使いとして土地の人は食べないとのこと。
ちなみに、この伝説にいう「鰐魚」とは、サメのことです。古事記や書紀では「鰐」は海にいる鮫のことを指します。(例えば豊玉姫の本来の姿は「八尋和邇(やひろわに)」つまり18mぐらいのサメだといわれています。)
伝説の中身が時間の経過とともに変化していくことはよくあることですし、そもそも與止日女神社の流域は聖地ですから、川上川の主として崇められた鯰(ナマズ)が神の使い(眷属)となるのは全くおかしなことではありません。
同じく與止日女神社のホームページで紹介されていましたが、一説によると與止日女神社創建当時は自然石を御神体として祀ったとされ、それに類するものが対岸の上流にある巨石群ではないかと言われているそうです。神社創建当時(欽明天皇25年:564年)は御神体は巨石群にあったと思われます。『肥前国風土記』では世田姫は「石神」だとハッキリ書いてありますので、巨石群(石神)つまり「世田姫」は與止日女神社の御神体(祭神)である、と考えられますよね。
與止姫(肥前国風土記逸文)
<書き下し文>
引用:『風土記』武田祐吉 編 岩波書店 昭和12年(1937)
『風土記に云はく、人皇卅代欽明天皇の廿五年甲申冬十一月朔日甲子、肥前の國佐嘉の郡、與止姫の神、鎮座(しづまりま)すことありき。一(また)の名は豊姫、一(また)の名は淀姫なり。』
------筆者注------
●豊姫 - 考證にゆたひめと訓む。
(※管理人注:「考證」とは享保18年(1733年)に成立した度会延経著『神名帳考証』のことだと思われます。詳細は面倒なので調べていません。)
-------------------
<原文>
『風土記云 人皇卅代欽明天皇廿五年甲申冬十一月朔日甲子、肥前国佐嘉郡 與止姫神 有鎮座 一名豊姫 一名淀姫』

「逸文」とは昔は存在していたけど現在は伝わっていない文章のことで、『肥前国風土記』の逸文は『延喜式神名帳頭註』に記されています。『延喜式神名帳頭註』は『延喜式神名帳』(『延喜式』巻九・十のこと)の注釈書で、吉田兼俱により文亀3年(1503年)に著されました。
この逸文は「與止姫の神社」の創建について記されていますが、「與止姫の神社」とはそのまま現在の「與止日女神社」を指します。「日女」は「ヒメ」つまり「姫」のことですからね。『延喜式神名帳』(927年)では神社名は「與止日女神社」です。
逸文を読むと、與止姫神の別名は「豊姫(ゆたひめ)」「淀姫(よどひめ)」だということがわかります。
世田姫と與止姫の関係
『肥前国風土記』(740年頃)に記載されている「世田姫」と『延喜式神名帳頭註(肥前国風土記逸文)』(1503年)に記載されている「與止姫」の関係ですが、管理人は同一神だと考えています。
そもそも『肥前国風土記』の佐嘉郡条に石神「世田姫」が記されており、その逸文に與止姫が肥前国佐嘉郡に鎮座していると記述されているわけですから、同一神と考えるのが自然だと思います。與止日女神社御由緒(ホームページ)の記述に創建当時は巨石群の自然石を御神体として祀ったとの説が紹介されていましたが、この説も「世田姫」と與止日女神社の祭神が同一神であることを補強しています。
また、現在與止日女神社がある「川上」、『肥前国風土記』で石神世田姫がいると書かれている「川上」、石神が祀られていたと思われる巨石群は與止日女神社の上流「川上川」にあるという事実、位置関係からも「川上」は同一川を指していると思われるわけで、このことからも「世田姫」と「與止姫」は同一神だと考えられます。
更に、逸文が「與止姫(よとひめ)」の別名を「豊姫(ゆたひめ)」「淀姫(よどひめ)」だと言っていることを忘れてはいけません。
この別名により「世田姫(よたひめ)」という読みが変化して「ゆたひめ」「よとひめ」「よどひめ」と呼ばれるようになったのだと安易に想像できます。「世田姫(よたひめ)」から「よとひめ」へと読みが変化したことにより、神社名は「豫等比咩天神」(860年)、「豫等比咩神」(873年)、「與止日女神社」(927年)と変化していきます。「淀」の字があてられたのは川の淀みが神格化されたものなのでしょう。
このように読みの変化から考えてみても、「世田姫」と「與止姫」は同一神だと思われます。
ということで、上記掲載画像『佐賀県神社誌要』の記述通り、肥前国風土記逸文に記載されている肥前の國の「與止姫の神社」は石神「世田姫」を祀っている神社だと考えられます。「世田姫」と「與止姫」は同一神であり、「世田姫」=「與止姫」=「豫等比咩神」「與止日女」「淀姫」だと考えて間違いないでしょう。
世田姫はなぜ豊玉姫と言われるのか
石神「世田姫」と「與止姫」は同一神であり、読みの変化から現在の與止日女神社の祭神である「與止日女命」と同一神だと考えられることは前述した通りです。
『延喜式神名帳』(927年)での與止日女神社の祭神は「與止日女」です。
しかし、西暦961年頃に與止日女神社から勧請された京都府伏見区の「與杼(よど)神社」では、主祭神は「豊玉姫命」になっています。
おそらくこの頃には「與止日女命は豊玉姫命と同じ神様だ」という認識ができていたと思われ、それが現在の與止日女神社の祭神説明「與止日女命(神功皇后の御妹)、また豊玉姫命(竜宮城の乙姫様)とも伝えられている。」に繋がっているのだと思います。
でもちょっと待ってください!
「與止姫」つまり「世田姫」は「石神」だったはずです。
「與止姫=世田姫(石神)」だったはずなのに、なぜ961年時点では「與止姫=豊玉姫(海神)」になっているのでしょうか。
「石神」から「海神」への変化は激しすぎませんか?どういう過程で「世田姫=與止姫=豊玉姫」になったのでしょう?
という疑問を持ちましたので、考えてみたいと思います。
與止日女神社がある川上川の上流には現在も巨石群があり、創建当時は自然石が御神体だったという説もあることから、この巨石群の「石神」は元々この地(巨石群)で祀られていたのだと管理人は思います。創建当時、つまり欽明天皇25年(564年)時点です。
『肥前国風土記』の石神世田姫伝説は、「海神(鰐魚=サメ)が魚を引き連れて毎年この石神(世田姫)のところにやってくる。人々がこの魚を丁重にもてなせば災いは無いが、人々がこの魚を食べてしまえば死ぬこともある。この魚たちは2~3日留まって、やがて海へ還っていく。」というものです。
川上川がありますから、この川を使って魚たちが訪れることは可能でしょう。わざわざ石神世田姫のところへやってくるのですから、海神よりも石神の方が格が上のような気がします。朝貢しているのではないでしょうか。もしくは「魚(海神が連れてくる人)を食べれば(殺せば)人々は死ぬこともある」という内容から、いわゆる同盟国だったのかもしれません。
石神と海神の関係(朝貢もしくは同盟国。山の民と海の民の交流。)は昔からこの地に伝わっていたので、石神のお話が『肥前国風土記』(740年頃成立)に収められました。
しかし、與止日女命は記紀神話には登場しないらしいので、石神世田姫と言われても誰のことを指すのか他地方の人にはわからない。このような状況が続いていくうちに、記紀神話で有名な豊玉姫の名前を世田姫になぞらえてしまったのではないでしょうか。
世田姫には別名として「豊姫」「淀姫」の名前が挙げられていますから(肥前国風土記逸文)、世田姫は現地では「豊姫」とも呼ばれていたことがわかります。伝説には海神が登場しますが、豊玉姫はいわゆる海神(海神の娘で、本来の姿は鰐つまりサメ)ですから、世田姫伝説が豊玉姫の話と混同されて「世田姫=豊姫=豊玉姫」となってしまったのではないでしょうか。
管理人は、「先にどこからか豊玉姫(とよたまひめ)の名前が伝わり、その名前から石神の名前が世田姫(よたひめ)と付けられて風土記に掲載された」という順番ではなく、「元々この地の伝説として先に世田姫の名前があった」と考えています。
「世田姫(よた)」が「豊姫(ゆた)」に変化して、だからこその「豊玉姫」なのではないか、と。
風土記の性質上、その地方の伝説がそのまま掲載されていると管理人は思いますので、当地で呼ばれていたのは間違いなく「世田姫(よた)」 だったのだと思います。そしてもしも豊玉姫から世田姫が名づけられた(トヨタマ→ヨタ)ならば、その変遷について風土記編纂時点で記されていたはずだと思うのです。「世田姫はつまり豊玉姫のことだ」と。しかし、風土記では記紀神話にもない世田姫の名前だけが書いてある。風土記の時点では豊玉姫との関連はなかったのではないか?と思えてしまいます。
それに、もしも豊玉姫の名前が先にあって、その名前が伝わるうちに変化して世田姫となったのであれば、なぜ石神の世田姫に海神の豊玉姫の名前を付けてしまったのでしょうか。豊玉姫は水の神様です。世田姫は石神だとハッキリ書いてあります。風土記に編纂された時点で石神に海神の名前を付けたというのは、やはりちょっと納得いかないんですよね。
石神(巨石群)だと風土記で書かれている世田姫が海神である豊玉姫のことだと言われるようになったのは、世田姫伝説に登場する海神(鰐)の存在が「鰐つまり豊玉姫のことだ」と認識され、海の魚たちが朝貢しにくるわけですから、そのまま「豊玉姫が世田姫なのだ」と理解されてしまった故ではないでしょうか。また、世田姫(よたひめ)が豊姫(ゆたひめ)と呼ばれていたことで、充てられた「豊」の字により世田姫は豊玉姫のことだという認識に変化したのではないでしょうか。
こういった複合的理由によって「世田姫とは豊玉姫のことである」との考えが広まったのだと思います。「世田姫」→「豊姫」→「豊玉姫」という流れですね。
その後、豊玉姫の「鰐(サメ)」が「鯰(ナマズ)」に変化したのでしょうね。海ではなく河ですから、海の神(鰐=サメ)も河の神(ナマズ)に変化した。だから当地ではナマズは食べない、と。そしてナマズは他の豊玉姫命を祀る神社(例:嬉野市の豊玉姫神社)でも眷属神となっていくのでしょう。
ここでちょっと疑問なんですが、石神世田姫はなぜ川傍に祀られたのでしょうか。「豊玉姫」になぞらえられたから、だから川上傍に祀られたのでしょうか。でも「世田姫」は石神であり巨石群に鎮座していたわけですよ。ある日「世田姫は石神だけど水の神でもあるんだって。だから山から下ろして川上傍に祀ろう!」なんてなるわけないですよね。幾らなんでも力技すぎます。でもこれって不思議じゃないですか?
『肥前国風土記』成立時点(740年頃)ではまだ、世田姫は石神として巨石群に鎮座していました。だからこそ石神の話が『肥前国風土記』で書かれています。
『日本三代実録』によると貞観2年(860年)に與止日女神社は従五位下から従五位上の神階を授けられており、この時の表記は「豫等比咩天神」です。従五位下の時代があったわけですから、860年以前には既に神階を授けられていたということですね。また同じく『日本三代実録』によると貞観15年(873年)に正五位下を授けられた時の表記は「豫等比咩神」です。
延長5年(927年)の『延喜式神名帳』では「與止日女神社」と記載されており、神社名が「よとひめ」「よどひめ」と確定したのは「豫等比咩」表記から考えても800年代だと思われます。
そして同時に「豊玉姫」の名が認識されていったのだと管理人は考えます。なぜなら、神階を授けられる前には、世田姫は川上傍に下りていたと思うからです。
神階を授けられるためにはそれなりの社殿がないといけませんよね。だって神階つまり位を与えられるのは天皇への奏聞を以て決定されることなのですから。社殿がなければそんなことはできません。
もしも祭神が石神世田姫だけだったならば、社殿は巨石群に建立されていたはずです。でも巨石群に壮大な(少なくとも神階を受ける程度の)社殿を建立することは難しかったと思いますし、実際に巨石群には祠はありますが社殿の跡はありません。
管理人は神階を授けられる前(少なくとも860年よりも前)には既に「豊玉姫」の名が認識され川上傍に社殿が建立されて人々の崇拝を受けていた、だからこそ神階を授かることができたのだと考えます。
ではなぜ、巨石群に祀られていた世田姫(與止姫)は素直に川上傍に下りてきたのでしょうか。
しつこいですが、ここで順番を間違ってはいけません。神階をもらいたかったから川上傍に下りてきたわけではないのです。元々川上傍に祀られており、社殿もきちんと建立されていたからこそ、800年代後半には神階を授けられたわけですよ。
石神である世田姫が海神である豊玉姫と同一神であると考えられるようになったことは前述しました。でも、実は世田姫はそのまま巨石群に祀られていてもよかったはずなんですよね。だって石神なのだから。
「豊玉姫と同一神だから水の神になったのだ。だから川上川傍に祀るのだ。」という考えも確かに存在していたと思います。そうでなければ「川上」に「石神」が下りてくるはずがありません。でも、それだけではないと思うのです。世田姫が豊玉姫に取って代わられたわけではないのですから、石神だったという概念は、川上傍に下りてきた時点では消えていないはずだと思います。人の想いは簡単には変えられないのですから、川上傍に祀ろうとした時に、絶対に「元々世田姫は石神なのに」と反対する声があったはずです。でも、石神世田姫は川上川傍に下りてきました。なぜ素直に石神世田姫は川上傍に下りることができたのでしょうか?
荒ぶる神とは何か
『肥前国風土記』には世田姫伝説の前段階として川上に「荒ぶる神」がいたと書かれています。(上部掲載『肥前国風土記』画像参照)
「荒ぶる神」は祀り鎮められたと風土記に記されていて、この一連のお話が「賢女(さかしめ)」つまり佐賀という地名の由来となっています。しかし、風土記にはこの荒ぶる神様がどこに祀られたのかの記述がありません。「又」という表記で並列的に世田姫に関する記述がありますので、「荒ぶる神」と「世田姫」は別の神様です。
川上の地には「荒ぶる神」と「世田姫」の二神がいて、風土記編纂当時は巨石群の地には石神である世田姫が祀られ、現在の與止日女神社の地(河上神社)には「荒ぶる神」が祀られていたのではないかと、管理人は勝手に想像しています。
與止日女神社の祭神である與止日女命(世田姫)・豊玉姫命はともに女神です。でも、與止日女神社本殿の千木は男千木ですから、ここには男の神様が祀られています。そして與止日女神社(河上神社)の祭神は「與止日女命神」と「大明神」です。「大明神」とはいったい誰のことか?と考えた時に、管理人はそれが「荒ぶる神」なのではないかと想像します。
嘉応2年(1170年)の與止日女神社の記録では本殿が記されておらず、本来は川を、淵を、山を崇拝する自然崇拝の神社だったわけですよね。「荒ぶる神」を祀り鎮めた地だからこそ自然崇拝が行なわれており、だからこそ違和感なく世田姫(石神)も合祀されたのではないか、と。
参考にした『佐賀県神社誌要』(上部掲載『佐賀県神社誌要』画像参照)では、「大明神」について「祭神大明神は合祀により追加」と記載されています。この記述を信じると、先に世田姫が祀られていて、そこに大明神が合祀されたことになります。でも管理人はこの『佐賀県神社誌要』の記述をイマイチ信用できないんですよね。(石神と海神の関係についての記述等が理由です。後述しています。)
そして結局、「大明神」が誰なのかは『佐賀県神社誌要』には書いていないのです。
世田姫は間違いなく巨石群の地に祀られていました。今でも祠があります。
(管理人は巨石群に世田姫が祀られていたと思っていますが、管理人が考えるその祠には「石神宮」との銘があります。宝暦13年(1763年)に造られた祠で、『佐賀県神社誌要』に記述されている石神の鎮座地「三面の大石」の描写と同じような場所に鎮座しています。)
それがなぜ、今は川上傍に祀られているのか。
石神なのになぜこの地に祀られたのか?川上傍に祀られるためには何か理由があったのではないか?
だって巨石群に祀られているものをわざわざ川の傍に勧請しているんですよ?
石神なのに川傍に祀った理由は何ですか?
それは、元々この地に(川の傍に)「自然」を崇拝する社があったからではないのでしょうか。
「自然」を祀っていたからこそ、そこに石神である世田姫が合祀されても何ら問題など無かったのではないか。そう管理人は思うのです。
ちなみに管理人が考えている石神(世田姫)は、現在の巨石パーク内に鎮座しておられます。「巨石パーク」などとちょっと笑ってしまうようなネーミングになってますが、ここの巨石群は素晴らしいです。管理人は上記「石神宮」(管理人が風土記時点で世田姫が祀られていた場所だと考えている祠)や、神秘的な岩の写真(赤い光を発しています)などを撮影していますが、こういうものをネットに挙げるのはなんだか恐れ多い気がしますので公開はしません。
こういう時にいつも思うのですが、実際にその地へ行ってみたらいいと思うのです。史料に書いてあることだけで論じてしまうのは実証という面では正確ではないですよね。管理人は実際に巨石群を目にして、ここに石神世田姫が祀られていたのだと素直に思いました。そしてこの巨石群の神をなぜ川傍に祀ったのか、改めて謎に思うのです。石神が川傍に祀られたことに対してどうしても違和感がある。
でも、石神が川傍に「合祀された」と考えれば納得できるのです。
巨石群にしか祀られていない場合は人々はなかなか訪れることができません。石神宮までは2時間ぐらいかかります。昔は道も整備されていなかったのですから、山道も険しく歩くのに苦労したでしょうし、もっと時間がかかったことでしょう。
川上に既に「自然」を祀る社があったならば、その地へ石神を合祀して丁寧に祀り申し上げる。ええ、違和感はないです。
そして、だからこそ、この辺りの人々が昔から石神世田姫神(巨石群)のことを「上宮」と呼んでいた、という話に納得できるのです。
まとめ
與止日女神社の祭神について、時系列で考えてみます。
以下の流れはあくまでも管理人の妄想ですので詳細な証拠などは求めないでください。「こういう感じじゃない?」レベルの妄想・推測ですので「違うよ!」という証拠が存在していたとしても、管理人には無関係なことです。知ったこっちゃないですね。(ヒドイw)
1.元々この地(現在の與止日女神社の地)には自然崇拝として「荒ぶる神」(大明神)が祀られていた。
管理人は「荒ぶる神」は「大明神」のことだと考えています。
『肥前国風土記』には「山の川上に荒ぶる神あり」と書かれているのですから、川上の地には「荒ぶる神」がいたのです。現在の與止日女神社は川上傍にありますから、元々この地には何らかの神が祀られていた、それが「荒ぶる神」だったと考えても問題はないと思います。荒ぶる神は祀り鎮められて「和みき」(『肥前国風土記』)つまりこの地に留まることになった。そのまま自然崇拝の神社へと変化したのだと管理人は考えます。そして河上神社の祭神は「大明神」ですから、「荒ぶる神」は「大明神」のことだと考えても問題はない、でしょ?
2.欽明天皇25年(564年)創建当時は巨石群に鎮座していた石神「世田姫」が、この地に合祀された。
・『肥前国風土記』成立時点(740年頃)はまだ世田姫は石神として巨石群に鎮座しています。だからこそ『肥前国風土記』には石神世田姫の話が出てくるのです。
・社殿がなければ神階を受けることができないでしょうから、神階(従五位下)が授けられた860年より前の時点で世田姫はこの地(川上傍)に下りてきて合祀されたと思われます。
・この地の人々が昔から石神世田姫神(巨石群)のことを「上宮」と呼んでいたのは、世田姫をこの地に合祀した名残なのでしょう。合祀しても神は元々のその場所に鎮座しておられるわけで、だからこそ巨石群を「上宮」と呼ぶのでしょうね。
3.世田姫「よたひめ」という読みから「よとひめ」「ゆたひめ」という読みに変化し、祭神に豊玉姫の名が出てくる。
●「よとひめ」:その音により「豫等」「與止」「淀」へと変化し、「與止姫」「與止日女」「淀姫」へと変化した。
・祭神が「よたひめ」から「よとひめ」に変化したのは、『肥前国風土記』成立の740年から神社に神階が授けられ「豫等」の字が使われた800年代前半の間(少なくとも『日本三代実録』で「豫等」と表記されている860年より前まで)だと思われます。
・なぜなら、神社名「豫等」の漢字「等」は「と」と読むべきで「た」とは読まないからです。「豫等」という漢字は明らかに「音」から付けられた漢字です。意味的に「豫等」が使われたとしたら「與止」の漢字があてられるはずがありません。ずっと「豫等」で表記されているはずです。当時の祭神が「よと」と呼ばれていたからこそ、その音に合わせて漢字が付けられたと管理人は考えます。つまり、少なくとも860年以前は、祭神は「よとひめ」と呼ばれていたということです。「よた」だったら「等」の字は使われていないはずです。
・神階が授けられた時点で(860年より前)石神「世田姫」はこの地に合祀されています。もしかして合祀を期に「よた」から「よと」に正式に読みが変えられたのかもしれませんね。(あくまでも管理人の想像)
・以降、「與止」(927年『延喜式』)の字や「淀」の字が使われ、祭神は「よと(ど)ひめ」となります。
●「ゆたひめ」:「豊(ゆた)」の字を以て「豊玉姫」になぞらえられた。
・「ゆたひめ」という読みに変化したのはいつ頃なのか不明(管理人の想像では「よとひめ」に変化するのと同時期)
・「ゆたひめ」という読みに対して「豊(ゆた)」の字があてられていたことは『肥前国風土記逸文』に記述されています。
・管理人の考えは、「豊姫」という表記及び『肥前国風土記』の「海神が毎年やってくる」という伝説の内容により、「豊姫」は「豊玉姫」のことだと考えられるようになった、というものです。こう考えられるようになったのは川上傍に合祀された時期より前のことだと思われます。なぜなら「川上」傍に合祀されているからです。確かに「荒ぶる神」つまり自然崇拝の神社が既にあったから「石神」世田姫が川上に下りてくることに違和感はありませんが(これは管理人の説です)、「川上」にすんなり下りてきた理由のひとつに「世田姫=豊姫=豊玉姫」の概念が既に存在していたことも挙げられると思います。「海神」「水の神」だからこそ川上に下りてくることが可能となったのでしょう。
・『延喜式神名帳』(927年)での與止日女神社の祭神は「與止日女」つまり「よと(ど)ひめ」です。しかしこの時期には既に「與止姫=豊玉姫」の概念は成立していたと考えます。なぜなら961年に当神社より勧請された京都與杼神社の祭神が豊玉姫だからです。900年代には祭神について「世田姫=與止姫=豊玉姫」の概念が確立していたと思います。
4.祭神が並立する。
世田姫(よたひめ)の読み方が「よとひめ」「ゆたひめ」に変化した当初は、まだ世田姫には石神の概念しかなかったはずです。しかし、世田姫を巨石群から川上川傍へ勧請しようという動きが人々の間で起こった頃には既に「ゆたひめ」読みからの「豊姫」、「豊玉姫」への変換が起こっていたと思います。
・「よたひめ」から「よとひめ」へ
読み(音)の変化に合わせて「豫等」「與止」の漢字があてられています。読み(音)が変化して祭神名が変わっただけですから、この時点では「よとひめ」には「石神」の概念が存在していると考えます。「よとひめ」読みは「石神」の存在を表しているのではないでしょうか。
・「よたひめ」から「ゆたひめ」へ
読み(音)が変化して「ゆた」読みになったことで「豊(ゆた)」の字があてられました。この「豊」の字から「豊玉姫」がなぞらえられ海神の概念が付加された、つまり「ゆたひめ」読みは「海神」の存在を表しているのでしょう。
・祭神が並立する
「石神」と「海神」の概念を容易に並立させ得たのが祭神「淀姫」の存在なのかもしれません。「淀」の字は明らかに「水」を意味します。川の淀みが神格化されて「淀姫」という字があてられたと考えられますが、この時点で実は「石神」と「水の神」の概念を両立させているんですよね。「よとひめ」という「石神」に対する読みでありながら「水の神」を意味する漢字があてられているのですから。
そして「淀姫」という字があてられたことにより、「よとひめ」が「川の神」になったと考えられると思います。ここまで管理人は「海神」と「水の神」を併用(と言うより混同w)してきましたが、「淀」の字が使われていることから、やはりこの時点で「川の神」に変化しているのだと思います。
世田姫が川上傍に合祀されたことで、與止日女神社の祭神には「石神」と「海神」の両概念が並立することが明確になり、やがて「水の神」へと変化する。そして時代が下るにつれ、「石神」の概念が薄れていく。「淀姫」という表記にもそれが表れていると管理人は考えているわけです(石神「世田姫」を表すのは「よとひめ」という読み部分だけになってしまった)。そしてその結果、「與止姫」と言われても何の神様なのか、正確なところがわからなくなっていったのではないでしょうか。
もちろん祭神がわからなくなるわけはなくて、祭神はもちろん「與止姫」です。でもこの神社の名前としては「與止姫」以外に「淀姫」があり、「淀姫」という祭神名は見ただけで「水の神」を表すと理解できるわけです。では神社名の「與止姫」は何を表しているのか?いったいどこから「與止」はきたのか?ここで祭神に対する逆転現象が起こっている(「與止姫」→「淀姫」と変化したものが、「淀姫」がクローズアップされることにより「淀姫」=「與止姫」の根拠がわからなくなっている)と管理人は考えるわけです。
確かに「よとひめ(石神)」と「豊玉姫(海神)」は並立して存在していたのに、「よとひめ」という読みだけが残ったことで「與止姫」が誰を指すのかわからない。だからこそ下記で紹介しているように、與止姫=神功皇后の妹説が浮上してくる余地があったのです。
5.神功皇后の三韓征伐伝説が盛り上がった頃(1100年代/鎌倉時代)に「與止日女命は神功皇后の妹」説が大々的に宣伝される。
この説を世間的に確定させたのは『神名帳頭註』(1503年)ですが、鎌倉時代には既に妹説が流布していたようです。
6.結果、與止日女命がフィーチャーされて「大明神」(荒ぶる神)は目立たなくなってしまった。
大明神、どこに行ったんでしょう?もう完全に「荒ぶる神」は見えなくなってしまいましたね。
7.でも元々この地は「大明神」が祭神なので、本殿を建てた時に千木は男千木にした。
本殿は文化10年(1813年)に焼失し、文化13年(1816年)に再建されていますが、再建される前から男千木だったかどうかは管理人は知りません。でも男千木で建立されているということは、この河上神社には男の神様がいる、ということです。「荒ぶる神」と考えても問題ないのではないでしょうか。
ということで、長々と書いてきましたが、管理人自身も混乱してきましたので終わりたいと思います。
與止日女神社については様々な方が様々な考えを持っておられて、今回は本当に勉強になりました。
ここまでの長文や上記まとめに書いた内容は所詮、管理人の妄想です。いわゆる論文のように参考文献にあたったり史料を自分の目で確認したり、そういう作業は一切していません。ネットで読んだ誰かの説に乗っかっている部分も多々あります。
内容を読んでみて誰かの説をパクっているように思われるかもしれませんね。もちろんそういう部分もありますから、ここで謝罪しておきたいと思います。申し訳ありませんでした。
與止日女命とは誰のことなのか、調べれば調べるほど面白いです。
世田姫、與止日女、淀姫、豊姫、豊玉姫、神功皇后の妹、海神の娘、卑弥呼の宗女壹與、熊襲の王川上梟帥(かわかみのたける)の妹など、本当に色んな説があります。
そして大明神についても諸説あります。熊襲の王川上梟帥説には管理人も納得してしまいますね。
でもここにハマると抜け出せそうにありませんので、中途半端ですが駄文は終わりにしておきたいと思います。
【参考にさせていただいたサイト様】
・『肥前国ミステリー「與止日女命」』
・『淀姫(ヨドヒメ)/久留米地名研究会』
・『よみがえる壹與 佐賀県「與止姫伝説」の分析』
・『與止日女神社』
・『佐賀市地域文化財データベースサイト さがの歴史・文化お宝帳』
・『国立国会図書館デジタルコレクション』
(注)肥前国風土記写本について
740年頃に成立したといわれる『肥前国風土記』の原本は、もちろん存在していません。存在していたらビックリです。
『肥前国風土記』には「写し」が存在していて、刊行本としては寛政12年(1800年)5月発行のものが初めてだといわれています。長崎の大家惟年が所持していた書を荒木田久老が校正して出版しました。この寛政12年版(「久老本」と言います)が『肥前国風土記』の原本のような扱いとなっています。
その後、粟田寛の標注本(久老本に標注を加えたもの)や、古写本の影印本(南北朝以前の写本:猪熊本)なども出てきたようで、それらを比較参照しつつ、改良というか注釈をつけて考察・出版する、といった形で流布しているようですね。
いや、よくは知りませんけども。
さて、なぜこんなことを書いたのかというと、この『肥前国風土記』の原本扱いされている久老本がクセモノのようで、ちょっと間違っているところがあるらしいのです。
管理人は今回、国立国会図書館デジタルコレクションで『肥前国風土記』を検索してみて、その結果表示された本の世田姫部分をさらっと読みました。そこでまず驚いたのが、世田姫が出てくる箇所の「海神」の扱い方だったのです。
久老本では『此の川上(かはのび)に石神あり。名を世田姫と曰へり。海の神なり。年常(わに)[鰐魚を謂う]逆流(さかまくみづを)潜上(くぐりのぼりて)此の神の所(みもと)に到る。』と校正されています。
なんと、世田姫のことを思いっきり「海の神なり」と言い切っているのです。
つまり世田姫は石神でしかも海神だ、と言っている。
今回與止日女神社について考察するにあたり、管理人は上記で紹介している大正15年出版の『佐賀県神社誌要』を先に読みました。『佐賀県神社誌要』では「世田姫海神と云ふ」と書き下してありました。
「えーマジかよ!それじゃあ今まで書いてきた内容が全部ひっくり返るじゃん!」と驚愕してしまいました。
でも、納得いかない。原文を管理人自身、どう読んでみても世田姫と海神は別人のように読めてしまうからです。
ちなみに原文はもちろん白文(句点や返り点なし)で表記されていますから、どこで切るのかは読んでいる人の意味の取り方次第になります。
該当箇所は『此川上有石神名曰世田姫海神年常逆流潜上到此神所海底小魚多相従之(以下略)』です。
「謂鰐魚」という注釈がこの白文の「海神」の後ろか「年常」の後ろに入るわけですが、ちょっと無視して「此川上有石神名曰世田姫海神年常逆流潜上到此神所」を見てみます。
まず、どう考えても「名曰世田姫」で切れますね。これは異論はないでしょう。
そして管理人は「海神」部分では切れないと思いますね。だってその後ろの「逆流潜上到此神所」(流れを遡ってこの神のところにやってくる)のは誰ですか?主体がいなくなってしまうじゃないですか。
「名を世田姫と曰う。」「海神なり。」と読んでしまうと、「この神のところ」に誰がやってくるのでしょうか。「年常」がやってくるのですか?
でも「年常」って「年」という漢字がある以上は、期間や年月を指すわけですよ。そして実際に「年常」という単語も存在していて、それは「としごとに」つまり 「毎年」という意味なのです。
などと考えると、やはり管理人的には「海神なり」とは読みたくないのです(笑)。
もはや管理人も意固地になっているのかもしれませんが、「海神なり。」と切って読んでしまうと、この神のところにやってくる主体はどうしても「年常」にならざるを得ません。だから久老本は「年常」を「謂鰐魚」だと読んだのだと思うのです。「年常」=わに、と読んだ。
もしも「海神なり。」で切れてしまい、しかも「年常=鰐」つまり「海神=鰐ではない」ということになってしまうと、世田姫が豊玉姫になぞらえられた、「鰐だから豊玉姫のことなんだ」となぞらえられたのだ、という考えは成立しなくなってしまいます。
「これはヤバイ!全部考え直さないといけなくなる!」と思って色々と国立国会図書館のデータを漁っているうちに、「久老本は間違っている!」「海神は句の頭だ!」「[鰐魚を謂う]は年常の後ろではなくて海神の後ろに入るのだ!」「そう書いてある写本も実際にあるんだ!」と叫んでおられる考察本『肥前風土記新考』(井上通泰 著 1935)を見つけました。
管理人は喜んでこの説に乗っかりたいと思います!!
乗っかると、管理人が上記で書いた「世田姫が先にあって、豊姫と呼ばれていたから豊玉姫になぞらえられた」「海神(鰐)が朝貢しに来ていることが後々海神=豊玉姫となって、豊玉姫になぞらえられた」説が、原文と照らし合わせても成立するわけです。(←ヒドイw)
なので管理人と同じ考えを書いてあった井上説に完全に乗っかります。
ちなみに久老本の「川上(かはのび)」読みも、この本では「川上をカハノビとよめるはわろし」とか書いてあって面白かったです。素直に「かわかみ」でいいみたいです。「海神を久老が上に附けてウミノカミナリとよめるはいといとわろし」だそうです(笑)
どうでもいいですが、今回管理人は国立国会図書館デジタルコレクションに掲載されている関係本しか読んでいませんので、だいたい昭和初期の本なんですよね。その後、色んな関係本が出版されていると思いますが、管理人の説に合致する本を見つけたので、もういいです。面倒くさいので他の説をあたるようなことはしません。
あと、『佐賀県神社誌要』は久老本を原本として訳したので「世田姫海神と云ふ」と記述してあるのだと思います。「此魚二三日を経て」と書いてあるのも久老本から採ったのがわかりますね。(猪熊本では「経」ではなく「住」です。)
それと、『與止日女神社』のサイトに書いてある後陽成天皇の勅額「大日本国鎮西肥前州第一之鎮守 宗廟河上山正一位淀姫大明神一宮」も、『佐賀県神社誌要』では「大日本国鎮西肥前第一之鎮守宗廟正一位河上山淀姫大明神一宮」と記載されていますが、これも本家の與止日女神社が間違ってサイトに記載するわけがありませんから、『佐賀県神社誌要』の表記が間違っているのだと思います。
『佐賀県神社誌要』の記述をイマイチ信用できないと書いていたのは、こういう部分があるからです。
どちらにしても管理人が採りたい説とは違う説を書いてますから、『佐賀県神社誌要』の河上神社の記述には間違いがあると思います!(オイw)
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