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垂裕神社

湊川社

【神社】

こちらのページは、前ページ「垂裕神社(秋月城下町)」の続きという位置づけです。

前ページでは駐車場付近、杉の馬場、瓦坂、梅園公園、垂裕神社一の鳥居、黒門、垂裕神社参道の写真を掲載しました。ここでは垂裕神社参道の先の風景や、湊川社付近の写真を掲載します。

神社についてですが、垂裕神社(すいようじんじゃ)の説明は前ページに掲載していますので割愛します。垂裕神社の御由緒についてはこのページに掲載している「垂裕神社由来記」の画像と文章をご覧ください。ここでは湊川社について書いておきたいと思います。

 

 

垂裕神社の近くに「湊川社(みなとがわしゃ)」という小さな社(やしろ)がありました。

案内板と社の賽銭箱には「湊川社」と記されていますが、社の上部に「湊川神社」と書いた木札が掲げられていました。「湊川社」と「湊川神社」のどちらが正しい名前なのか管理人にはわかりませんが、案内板に従ってここでは「湊川社」で統一しておきたいと思います。

また、祭神である楠正成(くすのきまさしげ)についても、歴史上の人物として記載する場合の「楠木正成」ではなく案内板に従って「楠正成」表記で統一しておきます。「楠木」と「楠」の違いですが、「楠正成」表記は『太平記』での表現に従った表記になります。

 

 

「湊川社」という名前でわかると思いますが、この神社は「湊川の戦い(1336年)」で亡くなった楠正成を祀った神社です。案内板にも「湊川社(楠公社)」と書いてあります。

建武の新政(建武の中興とも。1333年~1336年)の後、後醍醐天皇に味方した楠正成は「湊川の戦い」で足利尊氏軍と戦い、破れて自害します。『太平記』のクライマックスであるこのお話については、知らない人はいないと思います。

時代は下り、幕末の維新志士らにより楠正成は理想の勤皇家として崇敬され、各地に楠正成が祀られます。

楠正成を祀った神社は一般に「楠社」や「楠公社」と呼ばれていました。明治5年(1872年)、それまで祀られていた楠正成の墓所(摂津・兵庫県神戸市)に明治政府の手で改めて「湊川神社」が創建されます。地名から神社名が付けられましたが、湊川神社創建に伴って、以前は楠公社と呼ばれていた神社も湊川社(湊川神社)と呼び名を変えていったのでしょう。ですので「湊川社」は別名「楠公社」であって「湊川神社」とも呼ばれるのです。

 

 

「湊川社」のもう一人の祭神である菊池武光(きくちたけみつ)は、足利尊氏が室町幕府を開き、後醍醐天皇方が南朝、足利方が北朝に別れて時代が動いていた南北朝時代の人物です。

建武の新政崩壊後、後醍醐天皇は各地に自分の皇子を派遣して味方の勢力を築こうと考え、懐良親王を征西大将軍に任命し九州に派遣しました。菊池武光は懐良親王に味方し、南朝方として幕府方(北朝方)を数度の合戦で破り、九州での南朝方の全盛時代(征西府)を築いた人物です。

しかし3代将軍足利義満の時代になると南朝方の勢いも落ち、11年に亘って覇を唱えた征西府も陥落してしまいます。菊池武光は大宰府を追われ、高良山攻防戦の最中に亡くなります。

明治時代になると建武中興十五社の1つとして熊本県菊池市に菊池神社が創建され、武光も祭神となります。以降、菊池武光も南朝方としての忠勤が評価されますので、楠正成が祀られたこの「湊川社」へ合祀されたのではないでしょうか。

 

 

ちなみにネットで検索していたら、この「湊川社」は菊池武光創建だと書いてあるサイトを見つけました。湊川社の案内板に「菊池武光、楠正成を祭神とす」と記載されているため、おそらく「菊池武光が楠正成を祭神とした」と読まれたのだと思います。確かにちょっとわかりにくい表記ですよね。

管理人は菊池武光創建ではないと考えています。菊池武光が生きていた時代(南北朝時代)は楠正成は神格化されていませんので(神格化されるのは、少なくとも水戸光圀が楠正成の墓所に碑を建てた元禄5年前後だと管理人は考えます)、この文章は「菊池武光と楠正成を祭神とする」と読むべきだと思います。もちろん管理人は専門ではありませんので、本当かどうかは知りませんけどね。

 

 

案内板によると、湊川社は別の地に創建されていたものが明治中期にこの地に遷されたとのことです。

秋月氏は菊池武光に味方して南朝方として戦っていますので、その関係もあってこの地に湊川社が建てられたのかもしれませんね。

 

地図まで含めて計19枚掲載。

 

 

前ページはこちら

垂裕神社

所在地:福岡県朝倉市秋月野鳥666

撮影日:2014年04月06日、2014年08月16日

掲載写真:19枚

垂裕神社主祭神:垂裕明神(黒田長興公)

湊川社祭神:楠正成・菊池武光

◆垂裕神社由来記

垂裕神社由来記

ここは、旧筑前の国 秋月である。

当社は垂裕大明神(秋月黒田藩 初代藩主黒田長興公 [1610~16665])を奉祀する。

長興公は、福岡藩祖黒田長政の三男として生まれ、幼年より温厚沈毅にして英明の誉れ高く、父長政公に愛されていた。

1624年(寛永元年)秋月黒田藩五万石の城主として入府する(公は14歳)

福岡宗藩と共に肩を並べて諸侯の列に就くことができたのは、長興公の偉大なる人物によるところが大であった。

1638年(寛永15年)島原の乱に際しては、(公は時に28歳)幕命に従って諸藩と共に出陣、原城本丸攻略などに大きく戦功を挙げた。

1859年(安政6年)東陽院殿(長興公)の二百年祭典挙行にあたり、時の十代藩主 長元公(土佐 山内家より養子)は藩祖を祭神と仰ぎ、永く敬神酬恩(けいしんしゅうおん)し奉らんと勧請し、神号垂裕大明神を授賜された。

1873年(明治6年)この神社造営に当たっては、台地を開き道をつくり旧御館(おやかた)裏の空谷杉(からたにすぎ)や入府当時に植樹した丈余の老松が用いられた。又坂道の石段は士族の老若男女が総出でつくった故に士族坂(さむらいざか)と呼ばれている。爾来、祭神の英明にあやからんと遠近から参拝者が多く崇拝の社となっている。

時がうつりて1947年(昭和22年)歴代藩主、島原の乱以降の秋月の乱、佐賀の乱、熊本神風連の乱、福岡の乱、西南戦争などに没した志士、国家の為に忠誠を尽くし、殉華なされし、日清戦争、日露戦争、大東亜戦争などの戦没者、秋月町財政の功労者などの御霊が合祀さる。

参道の黒門は、秋月氏時代(1203年~1587年)の古処山城の搦手門(からめてもん)であったものを、長興公の秋月築城の際に大手門とし、明治になって現在地に移されたものである。(県指定文化財)

 

1999年10月 垂裕神社維持委員会

◆垂裕神社鳥居02番

垂裕神社の「二の鳥居」、2番目の鳥居です。参道の石段を上りきった先にあります。

明治6年(1873年)11月、従五位黒田長徳建立。社殿造営と同じ年に建立されています。黒田長徳(くろだながのり)は秋月藩第12代藩主で最後の藩主となった人物です。鳥居には「従五位」と書いてありますが、正確には官位は「従五位下」のようです。

鳥居の扁額は「○○神社」と書いてあるのはわかるのですが、「○○」の部分が読めません。写真の画質が悪すぎました。

垂裕神社 鳥居
垂裕神社 鳥居
垂裕神社 鳥居

◆垂裕神社拝殿・本殿

【垂裕(すいよう)神社】(説明碑より)

この神社は第十代藩主黒田長元により、安政六年(一八五九)五月、垂裕大明神(藩祖長興)を祭神として勧請されたものである。

当初は秋月八幡宮に祀られていたが、元治元年(一八六四)、現在地の一角に遷される。明治六年(一八七三)旧家臣の出願により、社殿・拝殿が造営され、さらにその後数回の改修を経て、現在に至る。

垂裕神社 境内

垂裕神社の全景です。

石段を上ると鳥居があり、その先には垂裕神社拝殿が見えてきます。

垂裕神社 拝殿

垂裕神社拝殿。

正面から撮影しています。

垂裕神社 拝殿

垂裕神社拝殿。

横から撮影しています。

垂裕神社 本殿

垂裕神社本殿。

手前が拝殿で、奥(この写真では右)に見えているのが本殿です。

◆湊川社の位置

前のページ「垂裕神社(秋月城下町)」でも説明していましたが、ここでまた湊川社の位置について書いておきます。

 

手描きの地図(あまり意味はありませんがクリックすると拡大します)の通り、「黒門」左側の参道を行くと鳥居があり、その先に湊川社があります。湊川社は楠正成と菊池武光を祀った社です。

 

以下は湊川社の鳥居、湊川社、そして秋月城之碑の画像を掲載します。

垂裕神社と湊川社の位置図

◆湊川社鳥居

湊川社の鳥居です。明治2年(1869年)5月建立。

不鮮明な画像のため断言はできませんが、この鳥居の寄進者は黒田長徳(秋月藩第12代藩主。最後の藩主)のようです。

湊川社 鳥居
湊川社 鳥居

鳥居の扁額(額束)を見ても、文字が書いてあるかどうかがわかりません。何も書いていないことはないと思うのですが、管理人が撮影した写真ではわかりません。

この鳥居は明治2年建立で、寄進者は黒田長徳のようです。黒田長徳は垂裕神社の鳥居02番(二の鳥居)を明治6年に寄進していますから、長徳寄進であれば、こちらの鳥居の方が先に建立されていることになります。

◆湊川社参道

湊川社参道 石灯篭

湊川社へ向かう参道にあった石灯篭です。

残念ながら参道沿いの写真はこの石灯篭しか撮影していませんので、まったく様子がわからないと思います。申し訳ない。

 

この石灯篭は管理人が参道をブラブラしていた時に、通常見かける石灯篭よりも立派だなぁと思って、なんとなく撮影していたものです。(1枚だけでも撮影していて良かった!)

台座というか土台というか、正確に何と呼ぶのか知りませんが、基礎部分が石垣みたいで素敵だと思いました。

◆湊川社(湊川神社)

湊川社(案内板)

湊川社の案内板です。

 

湊川社(楠公社)

菊池武光、楠正成を祭神とす。

明治中期、当地に移し奉る。

 

説明が短すぎて、どういう理由でこの地に移されたのか、元々どこにあった神社なのか、気になる点がありますがよくわかりません。祭神の楠正成と菊池武光についてはこのページ最初で説明している通りです。

湊川社
湊川社

湊川社です。

上部(屋根の下あたり)に「湊川神社」と書かれた木札が掲げられていますので、別名「湊川神社」なのだと思います。

湊川社

◆湊川社狛犬

湊川社の狛犬です。画像は1枚目が吽形、2枚目が阿形です。

 

明治2年(1869年)6月に奉納されています。

阿形は口の中に玉があり、吽形は右足で玉を踏んでいます。

 

この場所は木々に囲まれていたので光の調節がうまくいかず、撮影した画像は色合いがめちゃくちゃになってしまいました。まあ、別のカメラで撮影しても、管理人に写真撮影の腕などありませんけどね。

◆秋月城之碑

秋月城之碑

秋月城之碑です。

湊川社の先にあります。この碑の左側奥は梅園公園になります。

 

碑には「従二位勲一等侯爵黒田長成書」と書かれていますので、この「秋月城之碑」という文字は黒田長成が書いたものです。

黒田長成(くろだながしげ)は福岡藩第12代藩主で最後の藩主となった黒田長知(くろだながとも)の長男で、福岡藩の第13代当主です。

秋月藩は福岡藩の支藩ですから、本藩の当主に碑文を書いてもらった、ということでしょうね。

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【 Jimdo版:垂裕神社・湊川社

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